神戸の女児殺害事件で一審の死刑判決が破棄され、無期懲役が言い渡されました。
大阪で起きた無差別殺人事件でも、一審の死刑を破棄し無期懲役となりました。
2つの事件の死刑は、いずれも裁判員裁判による一審判決でした。
そしていずれも過去の判例を理由の一つとして、無期懲役に減刑されています。
このため、裁判員制度の軽視だ、前例主義だと非難が噴出しています。
しかし、僕はそうは思いません。
死刑で当然です
先に申し上げておきますが、僕は2つの事件はいずれも死刑で当然と思っています。
そして、今これを読んでいる普通の日本人よりも僕ははるかに過激思考でして。
死刑の執行方法は、被害者が殺されたのと同じ方法にすべきです。
神戸の女児殺害の被告は、同じように森に連れ込んで絞め殺す。
大阪の無差別殺人の被告は、商店街で包丁を持って追いかけ回して刺し殺す。
希望があれば被害者家族による処刑も認めるべき。
僕はきっとあなたよりも過激思考です。
そんな僕ですが、判例に基づく裁判を支持します。
判例は基準
判例主義を前例主義と言っている人がいますが、それは違います。
判例は基準です。
例えば、1人だけならば最高で無期、2人以上は死刑、といった基準です。
基準を明確にし、その基準に照らして量刑する。これが判例主義です。
今までこうだったから、今回も無難にこうしておこう。
そういう悪しき前例主義と判例主義は根本的に違います。
裁判官の価値観で量刑が変わって良いのか?
もし、判例という基準をなくしたらどうなるか考えてみてください。
裁判官個人の思想や価値観で量刑されることになります。
殺したのが1人だけなのに、裁判官が極刑主義者だったから死刑になった。
2人以上殺したのに、裁判官が死刑廃止論者だったから無期懲役になった。
こんなことが起こって本当に良いと思いますか?
これでは法治国家とは呼べません。
国民感情におもねって国際法を無視するお隣の国と何ら変わりません。
日本は法治主義国家です
今これを読んでらっしゃる方は、きっと無期懲役に減刑されたことが不満なのだと思います。
それは僕もまったく同じ気持ちです。
しかしだからといって、法治主義を無視することが許されるわけではありません。
判例という基準を無視し、裁判官個人の思想や価値観が量刑に影響する。
中国や韓国とは違うれっきとした法治国家である日本として、そんなことは絶対に許されてはならない。
そう思いませんか?
刑法を変えるべき
ではどうすれば良いのか?
僕は刑法を変えるべきだと思います。
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。(刑法第199条)
介護疲れの末とか、そういった例外事項を併記した上で、
人を殺した者は、死刑に処する。
に変えるべきだと僕は思います。
裁判員裁判は廃止すべき
また、裁判員裁判にも僕は断固反対です。
法曹の素人が人を裁くことに関わる、さらには死刑を下す。
それどころか、死刑を下すべき事案に無期懲役を下す可能性もある。
そんないい加減な裁判はまっぴらごめんです。
市民感覚を取り入れるならば、市民感覚を反映した内容に刑法を変えるべきです。
ヒステリックになるな
最近の日本の世論って、ものすごくヒステリックで短絡的だと思うのです。
人を殺したのになぜ無期に減刑する!
裁判員裁判の意味が無いだろ!
だからやっぱり死刑にしろ!
判例なんて無視しちまえ!
殺せ!殺せ!殺せ!
ろうそくデモをやってる連中と変わらないじゃないですか。
感情が支配する国にしてはならない
判例という基準をなくし、無基準の量刑を許すのは間違っています。
判例の内容が不満であれば、刑法を改正すべきです。
市民感覚を取り入れるならば、刑法にそれを組み入れるべきです。
我が日本国は法治国家です。
キッチリカッチリしたちゃんとした国です。
その国民である我々が、ヒステリックに感情で動くべきではありません。
刑法改正というキッチリ手順を踏んだ正しい方法を採るべきです。
感情で左右されるような三流国家に、我が国を貶めてはなりません。