SYLA FUNDINGの運営会社の経営者である杉本宏之氏と湯藤善行氏の詳細情報をまとめました。
SYLA FUNDINGでの投資の参考にして下さい。
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杉本宏之氏と湯藤善行氏の略歴
最初に杉本氏と湯藤氏の略歴を紹介します。
杉本 宏之
杉本宏之氏は株式会社シーラホールディングスの取締役会長です。
シーラホールディングスはSYLA FUNDINGを運営する株式会社シーラの親会社であると同時に、300戸以上のワンルームマンションを保有して賃貸運用(大家さん業)を行っています。
所有マンションの半分(146戸、51億円)はシーラが開発、分譲するワンルームマンション(SYFORME、SYNEX)で、シーラの分譲マンションの最大の保有者はシーラホールディングスです。
杉本氏の略歴は以下の通りです。
- 1977年6月25日:茨城県守谷市生まれ、神奈川県育ち
- 1996年3月:川崎総合科学高等学校情報工学科卒
- 1997年:東光マンションセンター入社
- 2001年12月:エスグラントコーポレーション設立、代表取締役
- 2005年12月:名証セントレックス上場
- 2009年3月:民事再生法適用を申請
- 2010年:SYホールディングス設立
- 2017年:シーラホールディングス 取締役会長(現任)
- 2019年9月:一般財団法人杉本建築デザイン財団設立
湯藤 善行
湯藤善行氏はシーラホールディングスとシーラの代表取締役です。
湯藤氏の略歴は以下の通りです。
- 1976年6月7日東京都生まれ
- 1995年3月:東京学芸大学附属高校卒
- 2001年3月:宇都宮大学工学部建築学科卒
- 2001年4月:日神不動産入社(マンション開発部所属)
- 2004年2月:エスグラントコーポレーション入社
- 2006年: 同、取締役(開発、建築部門担当)
- 2009年12月:ファイブノット 執行役員開発本部長
- 2010年9月:都市アドバイザリー 代表取締役
- 2010年11月:シーラ 代表取締役社長(現任)
ここまで、杉本宏之氏と湯藤善行氏の略歴でした!
杉本宏之氏と湯藤善行氏の足跡
ここからは2人が歩んできた道のりとシーラの歴史を見ていきます。
杉本氏の幼少期
杉本宏之氏は1977年に茨城県守谷市で生まれました。
父親は不動産会社を経営していましたが、杉本氏の誕生直後に当時の専務が社員を連れて独立し、父親の会社は倒産しました。
父親は不動産ブローカー業に転じましたが上手くいかず、一家は3歳の時に埼玉県川口市の6畳一間、風呂なしのアパートに引っ越しました。
数年後、神奈川県川崎市に引っ越しましたが、小学校時代は給食費も払えないほどの貧しい暮らしでした。
杉本氏が13歳の時に母親が急逝。さらに、バブル崩壊で父親の不動産ブローカー業も行き詰まり、ついには生活保護を受給しています。
高校進学
杉本氏は中学を卒業すると川崎総合科学高等学校情報工学科に入学しました。
学費は奨学金でまかない、バイトで生活費を稼いでいました。
しかし、父親は定職に就かず収入不安定で、生活保護を使い果たした挙げ句に杉本氏がバイトで稼いだ金を無心する有様。
ついに、取っ組み合いの大喧嘩となりましたが、父親も精神的に追い詰められていたのでしょう。杉本氏は包丁で左手を刺されたそうです。
これがきっかけとなり、杉本氏は真剣に将来を考えるようになりました。
宅建資格専門学校に進学
このままではまともな人生にならないと思った杉本氏は、大学に進学し普通の会社員になろうと決意します。
高校3年の秋から必死に勉強し、とある大学に補欠合格しました。
しかし、大学を卒業するまでには4年もあります。4年も待てない、早く稼ぎたい。
その時に頭をよぎったのが、不動産ブローカー業で失敗した時に父親がつぶやいた一言でした。
「こんな最悪な状況は100年に一度だ。」
100年に一度。ならばこれからは上向くのでは?
そう考えた杉本氏は奨学金を申請し、宅地建物取引主任者の資格受験の専門学校に進学したのです。
不動産会社に入社
強い意欲を持って専門学校に進学した杉本氏でしたが、そこは遊びたい盛りの年頃です。入学直後は勉強はせず遊び呆けていました。
その結果、夏休み明けの模擬試験の成績はクラスで下から2番目。
ようやくエンジンがかかり必死に勉強を始め、その年の秋に念願の宅建資格合格を果たしました。
さっそく求人情報誌を買って就職活動を始めた杉本氏は、「完全歩合制」という言葉に惹かれ、とある不動産会社に連絡を取ります。
初めての面接で何を話して良いかも分からず、採用されたら学校は辞めるとやる気をアピール。
採用の通知を受けるとすぐに専門学校を退学し、そのまま不動産会社に入社しました。
マンションの営業職に
杉本氏は1997年に東光マンションセンターにワンルームマンションの営業職として入社しました。
最初は苦戦したものの、徐々に要領を得て半年後からは快進撃。
3年目にはトップセールスとなり、年収は2千万円を超えました。
ベンツのオープンカーと恵比寿のマンションを購入し、キャバクラ、高級クラブで遊び回る日々でした。
独立を考える
営業マンとして順風満帆だった杉本氏でしたが、仕事で大きな不満が一つありました。
それは、当時のワンルームマンションのデザイン性の低さです。
デザイン性と機能性が高いマンションを開発すれば、家賃を高くしても需要はある。自分自身もスタイリッシュな部屋に住みたい。
そう考えた杉本氏は社長に直談判しましたが、まったく理解されませんでした。
これを契機に杉本氏は漠然と独立を考えるようになりました。
エスグラントコーポレーション設立
そんな時に起こったのが、2001年9月のアメリカ同時多発テロでした。
当時、杉本氏は会社の視察旅行でラスベガスに滞在中でした。
テレビの画面に映る崩れ落ちる高層ビルの画像。
もし自分があの飛行機に乗っていたら、今頃自分はこの世にいない。
人生のはかなさを感じ、やりたいことは今やろうと決意した杉本氏は、24歳だった2001年12月に独立し、エスグラントコーポレーションを設立しました。
1期目から黒字達成
会社設立当初は2,400万を出資してくれた会社経営者が代表となり、杉本氏の持ち株比率は15%でした。
最初は他の不動産ディベロッパーの物件を仕入れて販売していましたが、いい加減な経営だったため、設立から半年で会社の口座残高が10万円台に。
この事態に会社経営者は激怒し、杉本氏が全株を買い取るはめになりました。
しかたなく会社が倒産寸前であることを社員に告げましたが、誰一人として辞めるとは言わず一緒に頑張ろうと。
感動した杉本氏はここから盛り返し、1期目の売上高は7億円、経常利益は23万円で、わずかではありますが黒字で終えることができました。
Luxury Apartmentの成功
2期目に入ると杉本氏は理想とするデザイナーズマンションの開発に取り組みます。
2002年10月に初の1棟仕入れに成功。
自社ブランド「Luxury Apartment」シリーズのワンルームマンション第1号「ラグジュアリーアパートメント浅草橋」として販売すると、わずか2週間で完売しました。
Luxury Apartmentの成功で2期目は売上高22億円、経常利益5千万円。
2004年には「26歳、熱血社長、年商70億の男」を出版し、不動産流動化、アセットマネジメント、不動産サイト、賃貸保証事業など業容を拡大させていきました。
史上最年少で上場
そして、2005年12月に名証セントレックスに上場。28歳での上場は当時の業界最年少記録でした。
2007年6月期は年商377億円、経常利益24億円で、エスグラントコはピークを迎えます。
杉本氏は20代で個人資産100億円を達成。
この頃はいずれ森ビルのようになると豪語していました。
サブプライムローン問題で経営危機
ところが、2007年夏にサブプライムローン問題が発生。
不動産価格の下落が始まると、とたんに銀行の融資が厳しくなりました。
当時のエスグラントは資金借り入れでのマンションの開発販売で成長してきたため、融資を止められると資金繰りが急速に悪化。
銀行融資ストップから数ヶ月で債務超過に陥り、ピーク時には負債400億円、1日あたりの金利は300万円にも達しました。
2008年3月にユニマットホールディングなどを引受先とする第三者割当増資を行い、同グループ傘下で再建に取り組みましたが経営状態は改善されず。
2008年6月期は売上高320億円、純損失49億円でした。
エスグラントの倒産
もがくエスグラントにとどめを刺したのが、2008年9月に起きたリーマンショックです。
エスグラントの経営状況はさらに悪化。
子会社売却やリストラなど進めるも経営状況は好転せず。
会社設立から8年足らずの2009年3月、エスグラントは東京地裁に民事再生法適用を申請し倒産しました。
負債総額は191億3,700万円。杉本氏も自己破産しました。
湯藤氏がエスグラントに残る
1976年6月7日に東京で生まれた湯藤氏は、父親の仕事の関係で中学の3年間をアメリカで過ごしました。
東京学芸大学附属高校を卒業後、宇都宮大学工学部の建築学科に入学しました。
大学2年時に人材派遣業の会社を設立。学業が忙しくなり2年で会社は畳みましたが、この時に経営やマネジメントの面白さを知ります。
大学を卒業すると2001年4月に日神不動産に入社し、マンション開発部に所属します。
しかし、日神不動産の古い体質が肌に合わず、2004年2月にエスグラントコーポレーションに転職しました。
2006年には開発、建築部門担当の取締役に就任。多数の部下を抱え200億以上の売上げを作りました。
しかし、その3年後にエスグラントは倒産。
その過程でリストラを担当した湯藤氏は、罪悪感から最後までエスグラントに残り、債務整理を続けたのでした。
SYホールディングス設立
エスグラント倒産後、五反田の雑居ビルに移転した杉本氏の元に残った社員は、取締役だった湯藤氏を含む3人だけでした。
憔悴する杉本氏でしたが、湯藤氏に「もともとゼロから始めたんだから、また2人でゼロから始めましょう」と言われたのをきっかけに再起を図ります。
投資家に出資をお願いしたところ、必死さが伝わり10億円単位の出資を得ました。
会社は潰したものの、デザイナーズマンションという方向性は間違っていなかった。
杉本氏と湯藤氏は復活をかけて2010年にSYホールディングスを設立しました。
シーラ設立と復活
2010年9月にオリックスグループの不動産会社だった「都市アドバイザリー」をM&Aで取得。
社名をシーラ(SYLA)に変更すると、スタイリッシュなデザイナーズマンションの開発に着手しました。
2012年に自社ブランドのワンルームマンション「SYFORME(シーフォルム)」シリーズの販売を開始。
高いデザイン性と機能性が評価され、毎年300戸以上の販売につながりました。
2018年には売上が単体で100億円、グループ全体では200億円に達し、見事に復活を果たしたのでした。
杉本宏之氏と湯藤善行氏が歩んできた足跡をたどりました!
SYFORMEに込められた想い
杉本氏と湯藤氏はエスグラントでLuxury Apartmentを成功させながら、最後は経営破綻しました。
しかし、目指したものは間違っていないとSYホールディングスを設立し、シーラで自社開発マンションSYFORMEを成功させました。
社名のシーラ(SYLA)について、湯藤氏はブログの中で「Style Your Life & Asset」の略と説明しています。
本当にそうなのでしょうか?
エスグラント経営破綻後の社名などについて、僕は次のように推測しています。
- 「SYホールディングス」のSYは再起を期した杉本氏のSと湯藤氏のY
- 現社名「SYLA」のLAは、理想のデザイナーズマンションとしてエスグラントで成功させたLuxury ApartmentのLとA
- SYLAの自社開発マンションである「SYFORME」は、2人(Sugimoto & Yuto)の想いを形(FORME)にしたもの
2人の想いを込めて懸命に取り組んだからこそ、大きな敗北からリベンジを果たし、新たな成功をつかむことができたのでしょう。
あくまでも僕の推測で根拠はありません!
杉本氏の考えなどのまとめ
最後にネット上の情報から、杉本氏の考えなどをまとめておきます。
物件作りで大切にしていること
- デザインとモノづくりに対し徹底してこだわる
- 自分が住みたいと思える物件を作る
- タイルの接着剤一つにも高品質なものを
- フローリングや壁紙もメンテナンスしやすいものを
- 20年経っても価値を維持できる物件を作る
- 銀行から30年でも貸し付けたいと言われる物件
- 細部にこだわり品質の良いものを作る
- 数十年経った時に評価される物件を作る
- すべてにおいて”資産価値”を考える
経営面での考え
- 経営破綻を経て変わったこと
- 無理をしない経営を心がける(突っ走らない)
- 最高のシナリオと最悪のリスクの両方を考える
- 自社所有の賃貸マンションを増やして家賃収益と管理収益だけで社員を養えるようにしたい(実現済み)
- 安定経営を実現できる
- 次の攻めに転じられる(壮大な目標がある)
- 人材教育を重視
- 毎週1時間の朝礼を実施
- トップだけでなく社員もスピーチする
- 社員に自ら考え話すことを習慣化
- 企業理念を理解、徹底させる
- 2011年から利益の一部を恵まれない子供に寄付
- 若者支援のため2019年9月に公益財団法人「杉本建築デザイン財団」設立
社員に対する考え方
- 社員は家族、社員第一主義
- 社員のモチベーションを高めるために実現したこと
- フレキシブル勤務制度
- ベビーシッター代補助制度
- 大型連休制度
- 通勤ラッシュ対策で始業を9時半から10時半に変更
- 会社から3駅以内に住めば住宅手当
- 年2回の社員旅行
- 誕生月に愛情手当
- 今でも年に1回全社員と一人ずつ会食と個人面談をしている
以上、SYLA FUNDINGの杉本宏之氏と湯藤善行氏の情報まとめでした!
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